第三話:失ったあとには


 どこかから、風鈴の音が聞こえた。線の細い、涼しげな音。それに混ざって聞こえたのは、女性の声だった。ぼんやりとその会話に耳を傾けつつ、焼け付いたアスファルトを眺めながら歩く。声の主から数メーター離れたところまで来たとき、僕は自分の耳を疑った。凛とした声色が紡いだ言葉。
「・・・あなたには、飽きてきたところだったから。別れましょ。」
 ひどい事を言う人だ、と思った。どうしたら、そんな言葉が言えるのだろうか。

声のするほうを見やって、僕は息をのんだ。傾きはじめた陽に照らされた横顔に浮かんでいたのは、言葉とは裏腹な愁いの表情だった。
「だから、さよなら。お幸せにね・・・一将。」
ゆっくりと紡がれた言葉はその表情を裏付けるように、とても悲しい響きを持っていた。彼女の瞳に映る色に、僕は自分自身の感情を重ねていた。

あれは、一昨日の出来事。
「・・・大きな事故にならんで良かった。」
そう呟いた父親の背中は、とても小さく見えた。鼻をつく、焼け焦げた火薬のにおい。眼前に広がるのは、水浸しになった工場。夕暮れを告げるヒグラシの鳴声だけが、虚しくも響き渡っていた。父にかける言葉もなく、僕はただ拳を握ることしか出来なかった。

――どうしてこんなことに。

 翌日、水浸しになった工場の後片付けをしながら、そんなことを考えていた。
「・・・ゆー坊。」
 突然かけられた声に、驚きつつも振り返る。
「組合長・・・。あの・・・、昨日は、色々とありがとうございました・・・。」
「気にするな。おやっさんにはいつも世話になっているからな。星はどうだ・・・?」
 その言葉に、僕はゆっくりと首を横に振った。積み込みのために、出入り口付近に星を積んでいたのが徒になってしまったのだ。火薬の選別からはじめて、花火のもとである星を作るには長い時間を要する。濡れてしまった星を打ち上げることはできないし、今から作り始めたところで差し迫った花火大会に間に合うはずもなかった。
「そうか・・・ここの出荷予定分は俺らの方でなんとかするからよ。」
「すみません・・・。」
「おっと、謝るのはナシだ。困った時は、お互い様ってな。おやっさんはどうしてる?」
「父さんなら、火傷して・・・今は、病院に。」
 火のあがる工場へ、静止の声も聞かずに飛び込んだ父親は職人の命であるその右手にひどい火傷を負ってしまった。そのおかげで大惨事にならなかったというのも事実だが、一歩間違えば・・・、というのも事実だ。
「・・・そうか。じゃあ、おやっさんとこ寄って来るな。ゆー坊、あんまり気落ちすんなよ。無駄なことなんて一つもありゃしねぇんだ。まだ来年もある。一年だけ修行期間がのびただけだ。来年、ゆー坊の星が上がるのを楽しみにしてっからな。」
 そう言って、組合長は僕の肩を軽く叩いて工場を出て行った。
1人残された僕は、焼け焦げたシャッター横に置かれた木箱を呆然と見つめる。その中には、僕がはじめてつくった星もある。本来ならば、今回の大会で僕のはじめて作った星が上がるはずだったのに。整然と積まれた木箱は、濡れてしまった事を除けば変わったところなどないはずなのに、どことなく違和感があった。その違和感の理由など分かるはずもなく、僕はまた片づけに戻った。その時、薄汚れた窓ガラスに映った自分の姿を、僕はきっと忘れない。

――僕は、どうして花火師になりたいと思っていたのだっけ。

 思考の迷路に迷い込んでいた僕を、現実に引き戻したのは空砲の音だった。いつの間にか、陽はさらに傾いている。山が黄金色に染まっていた。夜が、近い。
 彼女はとうの昔に電話を終えていたようで、橋の手すりにもたれかかって水面を見つめていた。飛び降りてしまわないかと不安になるほどに、彼女の存在はあまりにも希薄だった。別に何が出来るわけでもないけれど、声をかけずにはいられなかった。彼女の中に、あの日の僕を見てしまったから。
「・・・あの、大丈夫ですか?」
 それは、彼女に対してかけた言葉というよりも、あの時何を悲しんだらいいのか分からずに拳を握ることしか出来なかった自分に対してかけた言葉だったのかもしれなかった。




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