詩砂 第3話
 サイドボードに置かれた時計に目をやれば、時刻は午後2時を過ぎようとしていた。
もうこんな時間なのかと思い、読んでいた本をサイドボードに置いて上半身だけで伸びをする。 ブラインドから差し込む光はとても眩しくて、窓を閉めていても聞こえてくる蝉の鳴声は、 四季のないこの部屋にも夏が来たことを知らせてくれていた。
 あれから一週間がたった今でも相変わらずルイとサキは面会時間になるとやってきて、他愛のない話をしては帰っていく。 そんな変わらない日々の中で変化したのは面会者用のイスの場所。
窓際の住人だったイスは今、カエのベッド脇に引越しをして行儀良く並んでいる。
 起き上がろうと思い、そっと床に足をつける。足裏から伝わってくる、ひんやりとした冷たさ。 それは、水面に足をつけた瞬間の感覚と似ている気がした。 ゆっくりとした足取りで窓際まで歩み寄り、窓越しに中庭を見下ろす。
 今日は暑いのかいつもよりも人影はまばらだった。 はしゃぎ回る小児病棟の子供達。病気を抱えていて、それでもあんな風に屈託なく笑える子供達が嫌いだった。 その笑顔を見るたびに、ケガくらいで、と後ろ指をさされている気がしたから。 それに・・・子供達の傍らにはいつも親の影があったから。

 自分が持っていないものを持っているのが、羨ましかった。

 ネガティヴ思考になりかけて、私は慌てて頭を振った。今更こんな気持ちになったところで、仕方がない。もう、そんなの慣れっこなんだから、と自分に言い聞かせた。
 ふと、目に留まったのは木陰に座り込んでいる赤い髪の人影。カエだと思った。あんな髪の色をしているのは、カエぐらいしか居ないから。
「何してるんだろ・・・?」
 検査だからと病室を出て行ったんだっけ、と今朝の出来事をぼんやりと思い出していると、ドアの開く音がした。振り返った先に立っていたのはサングラスをかけた一人の女性だった。裸足のままの足はまるで吸盤のように床に吸い付き、その場から動けなかった。彼女は、ゆっくりとサングラスをはずし私の名を一言呼ぶ。
「・・・静菜。」
 その声色に眩暈が、しそうだった。喉元まで、なにか熱いものがこみ上げて、やっとの事で出た声は途切れ途切れになってしまっていた。
「・・・お・・母さ、ん」
「先生から聞いたわよ。静菜、あなた一体何を考えているの?何ヶ月もリハビリに行かないなんて。ピアニストにとって、指がどれだけ大事なものかあなたわからないわけじゃないでしょう?ピアニストになるんでしょう?レッスンしなきゃ、指なんてすぐ動かなくなっちゃうのよ!」
 ピアニストになる、という言葉が頭の中でリフレインする。違う。私が、なりたいんじゃない。私は・・・、そう思った瞬間、私は叫んでいた。
「・・・ふざけないで!私をピアニストにしたいのは、アンタの方じゃない・・・!半年以上もほったらかしにしておいて、やっと来たかと思えばレッスンレッスンって、そんなにピアノが大事!?」
「・・・しず、」
「出てって!早く出てって!今更母親面しないで!アンタの顔なんてもう見たくない!・・・ピアニストが何よ!アンタも、ピアノも大嫌い!!早く出て行って!帰ってよ・・・!」
 自分の言葉に胸の端が痛んでも、悪いのは母のほうなのだと言い聞かせるしか出来なかった。
母はひどく傷ついた表情を見せて振り返ると、また来るからと呟いた。その声は、少しだけ震えていた気がした。

 入れ違いに病室に入ってきたのは、カエだった。
「まーた、派手にやったのなぁ。静菜チャン。外まで丸聞こえだったぞ」
「・・・聞いてたの」
「そりゃ、そーなるわな。」
カエは肩をすくめて見せた。
「・・・笑いたければ笑えば。」
「何、笑って欲しいワケ?」
「・・・別に。」
視線を床に落として答える。
「ほんっと素直じゃないね、静菜チャンは。なあ俺、言ったっけ?」
「・・・何を?」
「この世で嫌いな物ランキング」
「知らないわよそんなの」
「じゃあ、今教えてやんよ。ベストスリーのうち2つ。」
別に教えて欲しくない、と言おうとした瞬間、カエは間髪いれずに言った。
「お前みたいな嘘つきとウジウジしてる人間だよ」
 言葉より先に手が、出ていた。

―――パシンッ

「カエに、私の何がわかるって言うのよっ!」
 天才だと騒がれていたのだ。幼くしてピアノを始めて、それからずっと。去年の夏、あの日まで。
「すごいね、ってずっと言われてたのよ・・・。」
 自主練習の最中、突然起こった地震。震度こそ小さなもので、棚に置いてあった物が多少動くくらいだった。あの時、ピアノを弾いていなければ、と今でも思う。メトロノームが、鍵盤の蓋に直撃したのだ。鍵盤の蓋はそのまま左手の小指から中指までを挟んだ。その瞬間は鮮明に覚えている。
 モノクロに、飛び散る赤色。私が、赤が苦手なのはあの光景がフラッシュバックするから。
「怪我して・・・、治ると思ってたのよ!なのに・・・!」
 術後のリハビリをしていた時の事だった。左薬指の感覚がないことに気がついたのは。神経断裂していたのだ。 “天才ピアニスト御園佳奈の娘”の怪我がゴシップ記事に載ったのはその直後だった。私はこの時はじめて、話題性が欲しかったのだと気がついたのだった。世間が必要としていたのは"天才ピアニスト御園佳奈の娘"で、"御園静菜"ではなかった。ピアノの弾けない"天才ピアニスト御園佳奈の娘"は、いらない。今まであったはずのものが忽然と失われる。その悲しみは、体験した私にしかわからない。
「好きなことが出来る人間に、私の気持ちなんてわかるわけないじゃないっ!!指を失ったらピアノなんて、もう弾けないのよ・・・!」
睨んだ先には、あの鋭い眼。全て、見透かされている気がした。
「・・・だったら、ずっとそうやって自分を憐れんでろ。自分は可哀想だって、殻に閉じこもってればいい。自分の可能性も見失っちまってな。見損なったぜ。」
 カエはそれだけ言って、再び病室から出ていった。力なくその場に座り込んだ私は、カエの最後の言葉を頭の中で繰り返していた。
「見損なったって、なんなのよ・・・。」
呟いた言葉は、溶けるように静かに消えていった。この部屋って、こんなに広かったっけ。

「ちーっす。って、うわっ・・・!」
 ドア付近でうずくまっていた私は、元気良く入ってきたサキに蹴られる羽目になった。
「・・・おま、泣いてんのか?!ちょ、落ち着け、とりあえず落ち着け!・・・当たったトコ痛かったのか!?あ、謝るから・・・!」
「はぁ・・・。落ち着くのはお前のほうだよ、サキ。何があったか知らないけど・・・大丈夫?御園さん。」
 二人の対称的な対応に苦笑しつつ、ルイの問いに目配せして答えた。
立ち上がってベッドに戻り、二人はイスに座る。いつもと違うのは、カエが居ないこと。それが、何故だか少し悲しかった。
「で、何があったの?」
 ルイの問いに、先ほどまでの出来事を簡潔に説明する。ルイもサキも時折顔を見合わせたり、苦笑したりしていた。
「静菜があの人の娘かぁ・・・世も末だな」
「サキ、私に喧嘩売ってる・・・?」
睨みつけるとサキは別に、とはぐらかした。本当にこの人私より年上なのかしら。
「それにしても、カエは相変わらず言葉が足りない」
「・・・どういうこと?」
「カエ、言ってないんだな。静菜に。」
「みたいだね、まあ本人は言うつもりだったんだろ。今頃、言えばよかったって後悔してんじゃない?あのね、御園さん。」

 その後二人から告げられた言葉に私はただ驚くことしかできなかった。
神様、神様が本当に居るなら。それはあまりにも酷すぎはしませんか。

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