詩砂 第4話

「…こう、とう…がん?」
 告げられた言葉の意味を理解できないまま、私はただその単語を繰り返していた。
「……うそ、でしょ。カエが・・・喉頭、癌? そんなそぶり少しも――。」
 少しも見せなかった、そう言いかけて私は息を飲んだ。 日増しに酷くなっていたカエの掠れたような声。咳き込む度に苦しそうな顔をしていた気がする。カエが、見せなかったんじゃない。私が、見ていなかっただけだ……。

『好きなことが出来る人間に、私の気持ちなんてわかるわけないじゃないっ!!』

……わかっていないのは、私のほうだ。
理解を示してくれていた相手をただ頑なに拒絶して、自分だけが世界でいちばん不幸な顔をして、周りの事なんか知ろうともしていなかった。カエは教えてくれようとしていたのに。
わかってくれようとした人を一番言ってはいけない言葉で、拒絶、したんだ。
「そゆことだから……さ。カエ、歌えなくなんだよ。って、もっと早くいやぁよかったんだよな、ごめん静菜。」
 歌えなくなる、という言葉だけがやけに大きく聞こえたような気がした。あの絶望感を、彼もまた味わっていたなんて。喉の奥に突き上げてくるものを必死で飲み込もうとしたけれど、自分の意思とは関係なく視界が滲んでいく。
「・・・わ、たし・・・っ、ど、しよ・・・っ。カエに、ひど・・・こと、い、っちゃった・・・。」
 見損なった、というカエの言葉が頭の中でまた響いて、胸の奥がズキリと痛む。
「だーもー、泣くなよー・・・」
ぼろぼろと涙をこぼす私の頭を、サキは戸惑いがちに撫でてくれた。その手に、容赦なく頭をかきなぜるあの大きな手を重ねてしまって、また少し泣きたくなった。
 噛み殺しきれなかった嗚咽が、カエのいない白い部屋にこだまする。2人は何もいわなかったけれど、確かに傍にいてくれて私は少しだけ安心することができた。あの時とは、違うんだ。そう、思うことが出来た。
「・・・り、がと。サキ・・・も、大丈夫。」
「ん。よかった。あ、そだルイ、アレ。」
「ああ。」
 そう短く言うと、ルイは私に一枚の紙切れとMDを差し出してきた。受け取って、紙切れに視線を落とす。
「こ、れ・・・?」
 長方形の小さな紙には、手書きの文字で大きくBloomと書かれていた。カエ達のバンドの名前。よく見れば、右隅には今日の日付も書かれている。ライヴチケットだった。
「頼まれてさ。」
「……もらえないよ。私、カエにひどいこと言ったのに、もらう資格なんか、ないよ。」
「謝ればいいだろ。資格がないとかそんなんごちゃごちゃ言ってねーで、悪かったと思ってんなら謝りゃいいだろ。……カエは、生きてんだから。それに、カエの歌きかなくたって、俺の演奏聞きにこればいいだろ。」
 でも、と言いかけたとき、私の言葉にルイの言葉が重なる。
「サキの言うとおりだよ。悪いと思っているんだったら、これ以上すれ違う前に謝ればいい。それに、今日がカエにとって……いや、Bloomにとっても最後のステージになる。だからこそ、御園さんに聞いてもらいたいと思ってる。……悪いけど、俺らの我侭聞いてやって。」
 そう言って苦笑したルイに、何も言えなくなって私はいいかけた言葉をのみこんだ。カエ達の最後のステージ。一度、彼らの奏でる音を聞いてみたかった。音楽が奏者の心をどれほどに伝えるか私は、十二分すぎるほどに知っていたから。だけど、どんな顔をしてカエに会えばいいというのだろう。正直、わからなかった。
「っと、やべぇ。ルイ、時間! リハーサル遅れる! つか、カエがキレる!」
 考え込みはじめる意識を引き戻したのは、サキの慌てた声だった。
「と、本当だ。じゃあ俺が運転して……」
「しなくていいって! 俺、まだ死にたくない! じゃあな、静菜! 待ってるからな!」
「え、ちょっ……、待って! MDも……って、もう……。」
 私の返答など聞きもせず、相変わらずバタバタしながら出て行った2人の背中に小さく溜息を送り、結局つき返すことが出来なかったライヴチケットとMDをベッドテーブルに置く。窓の方へ視線をやれば、夕焼け色から闇色へ変わっていく空の色が見えた。あたたかな光が消えて、真っ暗な闇に染まっていく。それが、カエたちとの関係のように思えてしまって私は慌ててかぶりをふった。だめだ、他の事考えよう。
「本、どこに置いたっけ……」
そう呟いて視線を戻すと、居場所なさげに置かれたライヴチケットが空調の風でゆらゆら揺れている。MDが重石になっているので飛ぶことはないだろうけれど。そういえば、ルイはMDのことは何も言っていかなかった。何が入っているのか気になって、ベッドサイドの引き出しからMDプレイヤーを取り出し、一呼吸置いてから再生ボタンを押した。

 耳に入れたイヤフォンから、小さくノイズが流れてくる。
「………よぉ。」
数秒後、聞こえてきた声に驚いて、私は慌ててドアのほうへ顔を向けた。視線の先、ドアはきっちり閉まっていて、想像した人物はもちろんそこにはいない。ちょっとだけ残念に思いつつ、今は空になった隣のベッドに視線をやる。イヤフォン越しに聞く、喉の奥にひっかかるような少し掠れた独特の声は、ノイズが混じって聞こえるせいか少し違って聞こえる。
『……これ聞いてるってことは、俺はもう声でてないんだな。』
 そんな自嘲めいた言葉から始まった話は、私を驚かせるには十二分すぎた。
『静菜チャンは覚えてないだろうケド。俺ら、半年前に会ってんだぜ? ま、こっちが一方的に知ってたっていったほうが正しいかもしんねぇけどな。』
一方的に話を続けるイヤフォンの向こうのカエは、喉頭癌だと告知をされたその日、リハビリ室の片隅でピアノを弾く私を見たという。自暴自棄に自分を叱咤してくれたと、そう言った。
『絶対に治る、絶対に治すって必死になってリハビリやって。正直初めは馬鹿じゃねぇのって思ったんだけどな。片手でピアノ弾いて楽しそうに歌ってるとこ見た瞬間、そんなん吹き飛んだ。………すげぇ、って思ったんだよ。本当に音楽が好きなんだって、伝わってきてさ。俺が音楽はじめたワケを、思い出させてくれた。』
 カエらしくない言葉たちは、私の心を静かに揺さぶっていく。
『そんで、いざ入院してみたらこの部屋で、隣のベッドだろ? 半年前見た必死な静菜チャンの面影は全くねぇし、どっちかってーと昔の俺と被って見えるわ……マジに驚いたんだぞ。半年でこうも変われんのかって思って。だから、そのなんだ……勝手だけど。何かしてやりたかったンだよ。俺の、声が無くなる前に。何かしてやりたい、そう思った。つっても、俺が出来んのはケンカと、曲作るくらいなもんだから。……これくらいしか、思いつかなかった。』
 そこで一度言葉を切ったかと思うと、がたがたという音に続いて、咳き込む音がかすかに入っていた。離れた距離が短かったのだろう。マイクが音をひろってしまったらしかった。また少しして、ほんの少しひどくなった掠れ声が私の耳に届く。
『あー……んで、曲のタイトルは……詩の砂って書いて『詩砂(しずな)』な。静菜チャンの名前と同じ読みな。この俺が曲作るなんざ、滅多にねぇんだぞ? レアだぜ、レア。ありがたく受け取れ。』
 そう言って、聞こえてきたのはたどたどしい、ピアノの音色だった。
どこか物悲しくて、切ないメロディーライン。そこにカエのハスキーボイスが合わさる。

いつからか 惹かれていた
キミの強い眼差しに

いつしか 心通わせて
ボクを強くさせたね。

垣間見た 寂しさは
キミが紡いだ(ウタ)になり
よせる波は ボク (カナデ)
ひかる砂は キミ (ウタイ)

詩砂 どうか どうか永遠(トワ)
キミは幸せでいて。
詩砂 どうか どうか永久(トワ)
詠いつづけていって。

いつからか 惹かれていた
キミの強い眼差しに

いつしか 心通わせて
キミを強くさせたね。

 そのメロディーに、歌詞に、カエのやさしい歌声に、私はこみ上げてくるものを押さえることができなかった。こんなにも切なくてやさしい歌を、聴いたことがなかったから。静かに涙が頬を伝って、握りしめていた左手に落ちる。左手の薬指はもう一生動くことがないけれど、それでもまだ涙の温度を感じることが出来る。私は、まだ……。
 演奏が終わるとカエはゆっくりと、そしてさっきよりもしっかりとした口調で話し始める。
『……なあ、静菜。ずっと逃げ続けるなんてコト誰にもできやしねぇんだ。俺が言わなくたって、本当はわかってんだろ。あがいて見せろよ。まだ残ってんだろう。声も、指も。諦めるにゃまだちと早ぇよ。……俺は静菜が歌う『詩砂』を聞きたいと思ってる。なあ、静菜・・・お前だって持ってんだぜ? 心を掴む力、ってヤツ。お前のおかげでここまで音楽続けてきた俺が言ってんだ。信じれるだろ?』
 それに、と続けられた言葉にまた泣きそうになったけれど今度はぐっと飲み込む。
テーブルの上のチケットを掴むと、私はパーカーを羽織って病室から抜け出した。病院内で呼び止められる声がしたけど、そんな事かまっていられない。一刻も早く会いたかった。

ねえ、カエ。今度は私が伝える番だよね。 だから待ってて。 今、行くから。

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