第一話:優しさは、痛みとともに


 ある夏の日。一つの、恋が終わった。咲く時期間違えた、徒花の、恋だった。

「・・・あの、大丈夫ですか?」

 橋にもたれかかるようにして川の水面を見ていた私に声をかけて来たのは若い青年だった。 長袖のシャツに薄汚れたジーンズ。作業着といわんばかりの服装で、その肩にはご丁寧にもタオルまでかけてられている。 20代前半、ひょっとしたらもっと若いかもしれない。整ったかわいらしい顔が私の顔をのぞきこんでいた。
「・・・君こそ、大丈夫?」
「へ?」
「・・・悲しそうな顔してる。」
「え、ああ・・・大丈夫です。」
「そっか。ふふ・・・ねえ。私、そんなに思いつめた顔してた?」
「えっ、あ・・・その。」
 慌てながら、ちょっとだけ、と親指と人指し指の間を少しだけ広げて見せた青年がおかしくて自然と笑みがこぼれた。青年の横顔を照らすのは、山々の間から顔をのぞかせた斜陽。先ほどとは一変して青年の頬はほんのりと赤味を帯びているような気がした。
青年から視線をそらして、闇色に侵食されていく遥か遠くの空を見れば、太陽はもうすっかり山に隠れてしまって、その姿を見ることは出来なかった。ビル街に沈む夕陽も、山に沈む夕陽も、消えゆくのはどちらも変わらずあっけないのだ、とそう思った。
仕事で培われた外向性に青年の人懐っこさも手伝って、私達が打ち解けるのにはそう時間はかからなかった。橋の手摺にもたれかかり、私達は他愛もない会話を交わす。
「…この近所の人なんですか。」
「ううん。ここから2時間くらいかかるとこ。」
「じゃあ見にきた甲斐がありましたね。ここ地元でもあんま知られてないけど、穴場なんスよ。」
 その言葉に少し笑って答える。
「うん、知ってる。かず…地元の、人に聞いたから…。」
「あ、そうだったんですか。」
「そ。まあ、一緒に来る人なんていないから、こうして寂しく一人で来たんだけどね。」

――本当は、一緒に来るはずだった。

「・・・じゃあ、一緒に見ません?花火。」
 そんな私の心中を知るわけもなく、青年は思いがけない言葉を口にした。
「え・・・?」
「や、あの・・・!その、ナンパとかそういった事じゃなくて・・・!」
 両手を体の前で振って、言葉の通り意思を否定する。その慌てぶりがおかしかった。
「・・・ぷっ。うんうん、君を見てれば分かるよ。私でよければ、ご一緒しましょ。」
「あ、ありがとうございます!」
 そういって、青年は屈託のない笑顔を私に向けた。その笑顔に、もう二度と会うことのない人を重ねてしまった自分は、なんという愚か者だろうか。私は青年に曖昧な微笑みを返して、すっかり闇色に染まった空を見上げた。星が、もう空一面に煌いていた。
「・・・本当に、すごく綺麗に見えるのね。」
「あ、星ですか?ここね、街とは違ってすげー綺麗に見えるんですよ。降ってきそうでしょ。」
 その青年の言葉に、私はいつかの約束を思い出していた。


――俺ん家の近所ね、星が降る、っていうのかな?めっちゃ星が綺麗に見えるトコがあって。地元でも、知ってるヤツ少ないと思うんだけど。花火もそこから見ると絶景なわけさ。
――へぇ。そうなんだ・・・見てみたいね。星も、花火も。今年は、浴衣着ようかな。
――お、浴衣いいねぇ。じゃあ、浴衣着てさ、一緒に見に行こう。約束。
――はいはい、約束ね。

 果たされなかったその約束。
私の隣に、あなたはいない。あなたの隣はもう、私の居場所ではないのだ。

つう、と涙が一筋、頬を伝った。闇色のキャンパスに散りばめられた星たちの小さな煌きが、滲んでは消えていく。涙は意思とは関係なく、次々と溢れ出てくる。胸が、痛い。青年に気づかれないように慌てて俯くと、ゆっくりと遠慮がちに白色のタオルが差し出された。
「・・・人って、自分の気持ちには嘘つけないもんですよね。」
 そう言って、青年はそっと私の手にタオルを握らせた。
人の優しさがこんなに痛いと、こんなにもあたたかいと感じたことがあっただろうか。私は、出来るかぎりの笑顔で答えた。
「・・・化粧、ついても知らないから。」
 湧き上がる感情の前になす術もなくて、私は化粧が落ちるのもかまわずに泣いた。

嗚咽を隠すように顔を覆った彼のタオルからは、ほんの少しだけ火薬と汗のにおいがした。



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