「――ほうら、着いたぞ! 広いだろう!」
父の声はどこか満足気に聞こえた。確かにこの度住むことになった新しいマンションは広かったし、これまた父曰く、周りを自然に囲まれた静かで、妹の操の喘息にもいい、空気が綺麗な場所だった。これまで住んでいたのが東京だったから、余計にそれがよくわかる。
「……でも、なぁんにもない田舎じゃん、それって」
なぁんにもない。知っているものも、面白いものも。なぁんにも。
小田切直人はふいに携帯ゲームに集中していた手を休めて、窓から、マンションの裏手にある豊かな山を見下ろした。
あるのは田んぼと青々と茂った森だけ。
操は喘息がでないのがよほど嬉しいらしく、満足そうに部屋の真ん中で腕を組んでいる父の周りを走り回っている。
「ん、ナオ、なんか言った? 腹でも空いたか」
「別に。腹も減ってないから」
つれなく言って、直人は再びゲームに戻った。最近、父のことが少しだけうざったい。もう息子は小学六年生にもなる、というのに、こうやっていちいち子供扱いするのだ。直人はもう料理洗濯はひとりでできるし、掃除だって、地域の集まりやご近所付き合いだって父の代わりに立派に務められる。ゴミは分別して出せるし、ゴミ当番の日は掃除だってやる。操のお弁当を作り、保育園の送り迎えをするも直人の仕事だった。給食費や修学旅行の積立金だって自分で銀行振り込みにいったし。妹は時々わずらわしいけれど、でもちゃんと面倒をみている。これまでだってそうしていくのが当然で、これからもそうしていくのが当然だと思っていた。なのに。
「あら、もう着いたの! 早かったわね」
背後の扉が開いて、ひとりの女が微笑みながら入ってきた。
「君の方こそ。今日は仕事じゃなかったの?」
「そんなの、ナオくんとミサちゃんが来るって知ったら、どうでもよくなっちゃった!」
「あれ、僕のことは?」
「もちろん、あなたのことも、ね?」
すっかり2人の世界に入ってしまった父と女に、直人は無関心に背を向ける。
――とうさんのうらぎりもの。
「ナオくん、ミサちゃん!」
女はそこでやっと兄妹に向き直った。白い箱をぶらぶらと目の前で揺らす。「おみやげ! 今日からやっと一緒に暮らせるんだから、記念のケーキよ!」
イチゴのショートケーキだぞぉ、と、そのまま近づいてこようとする。直人はゲームをやめて、ゆっくりと立ち上がった。「……来いよ、ミサ」
その言葉にてとてとと妹は直人に駆け寄り、ぺちゃり、とその腰にくっつく。直人は操を片手で引き寄せて、女を睨みつける。
「あらあら、どうしたの? イチゴ、嫌いだった?」
「照れてるだけさ。な、そうだろナオ? こんなに綺麗な人がお前たちのお母さんになるんだからな」
おかあさん。
直人の眉が跳ね上がる。
父は直人の内心などまったく気がついていないようで、だらしなく顔を緩ませている。
「ミサはなつきさん好きだよなぁ。ほぉら、抱っこしてもらいなさい?」
「ミサちゃん、こっちおいで〜」
女がにこにこと笑みを浮かべて妹を呼ぶ。しかし、操は直人の腰に抱きついて離れない。直人もそんな妹を庇うように、背に回した。
「操、何やってる。別に取って食おうというわけじゃないよ。直人もだ。いい加減にしなさい」
とうとうしびれを切らしたのか、父が操を無理矢理直人から引き剥がし始めた。「来なさい! 操、ほら!」
「やー!! ミサ、にぃにがいー!! にぃに! にぃに!!」
「峻さん、わたしはもういいから……」
「ダメだ! こういうのは最初が肝心なんだ。直人! お前からミサに何とか言ってやれ!」
しかし、飛びついてきた妹をキャッチした直人は、ただ何も言わずに目の前の父親を睨んでいるだけだった。
「おい、聞いてるのかナオ!? 何とか言いなさい!」
あ、と苦虫を噛み潰したような表情になる。「……まさか、お前、まだ死んだあいつのこと――」
直人はさらに視線を険しくする。それはすなわちイエス、だ。
「ナオくん。ナオくんはわたしのどこが嫌いかな? 言ってくれれば直すから、ね? 仲良くしよう? そうだ、寂しいならわたしのことはおかあさんって呼んでくれてもいいから」
女がそう、気持ち悪い笑みを携えて、いかにも母親ぶったような言葉を投げかけてくる。
腹のそこがぐらぐらするくらいに気分が悪い。
直人は妹の手を取って、くる、と踵を返した。「……ちょっと出かけてくる」
「おい直人!?」
「ナオくん!!」
背中を追う言葉は耳に入らなかった。いや、入れたくなかったのだ。
さっきまでクーラーの効いた室内にいたせいで、外のうだるような暑さにはあまり気付いてはいなかった。まだ春とはいえ、これではまるで初夏の陽気である。操の長袖のカーディガンを脱がせて半袖の白いワンピースだけにした。ただまくるだけでは、肌の弱い妹はその部分に汗をかくだけですぐあせもになってしまうからだ。そうして自分は薄手のシャツを無理矢理肘の部分まで折り上げた。
「にぃに〜」
ズボンを捉まれてそちらを向くと、駄菓子屋があった。直人と同い年くらいの子供たちがたくさんいて、その手にはアイスクリーム。
直人は一瞬黙った。金は確かにないけれど、別に惜しんでいるわけではない。けれど、今、この場でやつらの縄張りに割っているのはこの先、自分に有利に働くのかどうか。
「きゃあ〜!」
「ミサ!」
迷っているうちに妹は無邪気に笑いながら駈け出していった。反射的に後を追って店内に飛び込んだが、即座に後悔する。
「なんだこいつ、見ん顔だなぁ」
「俺も知らんもんな。拳が知っとるわけないぜ」
「都会のコじゃないん、肌白いよ」
「あっちゃんのせいで怯えとるよ。こっちおいで、可愛いね、妹にしたいくらいよ」
すでに操は数人の小学生たちに囲まれていた。しかも元来、人懐こい方ではないため、こちらからでもわかるくらいに怯えてしまっている。直人は反射的にかっとなって、ずかずか店に足を踏み入れた。よっぽど恐い表情をしているのだろう、みな脇へと退いていく。そして妹の元に辿り着いた際には、いつのまにか遠巻きにされていた。
だが、そんな中でリーダー格らしい少年だけはむっつりと黙って腕を組んでいた。
「ミサ、来い」
「にぃに〜」
妹は半泣きで駆け寄ってきたのをしっかりと抱きとめる。
「お前ら俺の妹に何してやがった」
「ああ、おめえこそ誰よ?」
「ほーだよ。いきなりきてそんな大きな顔すんなや、都会もん」
「ちょっ、やめよあんたら! ケンカはダメだって先生が言っとったじゃん!」
「女子は都会もんをすぐそうやってかばう〜」
「ほーだほーだ」
「だってあんたらより優しそうだし、かっこええし!」
「うっせぇ、ブス!」
「なによー暴力男!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ小学生を尻目に、直人は操の手を取り、ゆっくり後退する。だが。
「待ちな、都会もん」
その場を制するように、リーダー格の少年が言った。どちらかといえば平均よりも小柄な直人よりかなり背が高い。他の誰よりもその場を支配していた。にやっと生意気そうに笑う。
「和泉だ。カズってみんなには呼ばせてる。お前は?」
「直人……」
「ふうん、じゃあナオか」
ナオだなんて。直人は反射的に和泉を睨み付けていた。「気軽に呼ぶなヤマザル」
「……誰がヤマザルだコラ?」
「てめぇだよバーカ、サルだから人語わかんねんじゃねぇのか」
苛立っていた。ナオ、と直人を呼ぶのは父と母――本当の母だけだったはずなのに。なのに、あの女もこいつもなんて気軽に自分をよばわるのか。腹が煮え繰り返っていた。
「にぃに?」
操の声など聞こえなかった。飛び掛かってきた和泉と互いに掴み合う。髪を引っ張り合い、胸ぐらを引き合い、そして殴り合い、蹴り合った。
「
直人ッ! 何してる!」
瞬間、強い力に無理矢理引き剥がされて、直人は夢中で暴れた。しかし、力は緩まない。逆に頬に熱い痛みが走って、直人は地面に転がされていた。妙に冷たい気持ちで顔を上げる。そこにいたのは父だった。
「いきなり飛び出して行ったかと思えば……! 何やってんだお前は! 相手の子に謝りなさい! 早く!」
殴られた。父に。
直人は恐ろしい顔をしている父親とその後ろに立っている女に視線をくれた。何だこれは。何なんだよこれ。そう思ったら、今までいやに冷静であり続けた頭が急にカッと熱くなるのを感じた。頬の痛みと同じ、熱さ。気がつけば、強く奥歯をかみ締めていた。
「何とか言いなさい! 最近のお前は変だぞ!? 前までは優しい子だったのに、いきなりこんな――」
「うるさい、裏切り者!!」
「直人ッ!!」
「っなせよ、クソじじぃ!! 触んなバカ!!」
俺のしてきたことってなんだったんだよ。
触れてくる手を思い切り振り払って、直人は再び駆け出していた。今度こそ当てなんてない。両目からぼたぼたと涙が零れてくる。止まらない。それを拭わないで、ただ駆けた。もう嫌だった。
マンションの裏にある山の中で直人は大量の涙を流していた。辛いことや寂しいことが一気に思い出されてきて、もうそれは止まりそうにもない。しゃくりを上げて泣き続ける。もう何だか疲れてもきていた。けれど、涙はとめどない。鼻水が後から後から噴出してくる。
そして、ふいに襲ってきた眠気。緑色の風が青々と頭上に茂った木々を揺らす。ざわざわ。ざわざわ。直人は落ちかけた瞼を擦った。痛い。泣きすぎたのだ。そして、今更になって妹を置いてきたことに気が回る。また、瞼が落ちた。今度は堪え切れなかった。気がつけばすとん、と眠りに落ちていった。
「にぃに……?」
よく知った声と、何も知らない声と。直人は目を開けて、妹の姿を迷い無く捉えた。今にも泣きそうに潤んだ瞳にゆっくりとその小さな体を引き寄せる。「……ごめんなミサ、にぃに、ミサ置いてきちゃったな」
「ミサへいき! だって『しーど』がいたもん!」
『しーど』?
聞きなれぬ名前に首を傾げたが、その瞬間、思わず身を固くした。
「こんにっちは、ナオト! おやおや、ずいぶんひどい顔だ!」
にゅ、と寝転んだままの直人を覗き込むようにして現れた顔。
自分が今動けるだけ一番早く、妹を背に庇い、それと対峙する。
「あんた誰だ!? なんで俺の名前を知ってる!?」
「あはは、そんなに怯えなくても。私はシード。以後お見知りおきを」
そう微笑して見せた顔はひどく平凡だった。中学生くらいだから年は直人より少し上だろうか、今時珍しい、この初夏の陽気には相応しくない学生服姿が穏やかな笑みを浮かべる顔にはちょっと不釣合いで、直人には怪しげに思われた。
「うるさい、お前の名前なんかどうだっていいんだよ!」
「にぃに、しーどとけんかしたらやー!」
操の言葉に、いつのまに移動したのだろう、シードがその頭をそっと撫でる。「ケンカじゃないですよ、ナオトさんは私に甘えてるだけです」
「甘えてねぇよ!! てか、ミサから離れろ変質者!!」
「おっと、変質者とは穏やかではない。私はただ、ひとりでオロオロしていたミサオさんをエスコートしたまで」
「そう、ミサ、えすこーと、したんだよー」
シードと手を繋いで嬉しそうな妹に直人は何となく苛立ちを覚えた。ひとつ溜息をつく。もう妹がシードに懐いてしまったのはしかたがない。肩を竦めて、もう片方の手を取った。「わかったよ。だから、にぃにと一緒におうちに帰ろ?」
「おや、帰るんですか?」
どこかおどけたような声音にじろり、と睨みつける。「んだよ、文句あっか」
シードが小首を傾げて、人のよさそうな笑みを浮かべた。「帰れるんですかね?」
ぎくっとした。確かに口ではそう言ったものの、本当は家に帰る気なんかなかった。あんな家、いや、家というのも腹が立つあんな場所へは戻りたくなかった。
言葉に詰まった直人にシードは楽しそうに目を細める。それにさらに腹が立って、無理に操の手を握り締めて引っ張った。「ほら、もう帰ろう!! 十分遊んでもらったろ!? なっ!?」
「やー!! ミサ、もっとしーどとあそぶー!!」
「バカ、聞き分けろ!! 俺はお前の兄貴なんだぞ!」
「やー!! いたいー! にぃに、きらいーー!! うわーーーん!!」
かなり強く引いてしまったらしい、とうとう泣き出してしまった妹に直人は一瞬途方にくれる。操は昔から癇が強い子供で一度泣き出すとなかなか泣き止まないのだ。いくら慣れている直人といえども、彼女を泣き止ませるのにはとても苦労する。
シードがくっくっと笑う。「あまり強引な男はレディにもてませんよ? ナオト」
「うるさい! お前にはカンケーないだろ!!」
「それに紳士が赤い目をしているのは、レディを不安がらせるもとだ」
暗に自分が泣いていたことを指摘されて、直人は一瞬で真っ赤になる。言い返そうとしても言葉が出てこずに、結局、変質者、とだけしか言えなかった。
シードが楽しげに柔らかな口元を緩ませた。そして、まだわぁわぁと泣き喚いている操の手を取り、恭しく口付ける。「泣かないで、私の姫君。これからあなたにとっておきの『魔法』を見せて差し上げますから」
操は驚きで、その元々大きな目をさらに丸くする。
「テメー、俺の妹に何しやが……」
食って掛かろうとした直人だったが、いきなり右手を取られて、これまた爪先に軽く唇を触れさせられた。にっこりと柔和に微笑まれる。「泣かないでください、私の姫君。この魔法はあなたにも捧げましょう」
「なっなっ……!?」
再び、今度は真っ青になった直人にシードは楽しげに笑う。からかわれたらしい。この野郎、と掴み掛かる手前、シードが静かに振り返って、それから唇の前に人差し指を1本立てた。「シッ、静かに。あまりうるさいと、『声』が聞こえない」
それが意外に真摯な様子で、思わず押し黙る。操もいつのまにか泣くのを止めていた。そんな兄妹を慈しむように少年は微笑んだ。そして、ゆっくりと辺りを見回して、それからある場所で立ち止まって兄妹を呼んだ。
「いったい何なんだよ? 『魔法』って何? あんた手品でもするわけ?」
「手品……まぁ、それに近いかもしれませんね」
シードは笑った。いたずらっぽくウインクをしてみせる。「しかし、ひとつしかレパートリーもないんですが」
「は? そんなの意味ねーじゃん」
ふふ、と微笑む。「確かに意味はないかもしれないですが」
それから目の前に視線を戻した。そこにはただの土しかなくて、独特な匂いが鼻につく。シードは黙って学生服のポケットに手を入れた。そして取り出して見せたのは。
「種?」
「ええ。近所の『フレッシュ』という花屋に売ってます。あそこの花はとてもいいですよ。また行ってみては?」
「興味ない」
「余談ですよ」
にこっと笑って立ち上がった。直人と操も釣られて立ち上がる。
「お二人は『緑の指』という童話をご存知ですか?」
「ミサ、しってるよー! このあいだ、ようちえんできょうこせんせえがごほんよんでくれたー!!」
ナオトは、と視線で聞かれて、首を横に振った。「知らない。それとあんたがこれからすること、何かカンケーあるわけ?」
「――どうやら、あなたはカンケーがあるとか、ないとか、意味があるとか、ないとか、そういったことがお好きなようだ」
「べっ別にどうだっていいだろ!?」
シードがふっと笑った。それから、手に持っていた種を思い切り空に投げた。たくさんの粒が宙に浮き上がる。シードは左手をそれにかざす。直人たちの方を見て、にっと口元を歪めた。「行きますよ」
ぱちんぱちんと弾けていく粒。瞬間、種から一斉に芽が吹き出した。蔓が次々と伸び行き、あっという間に成長を始める。緑の洪水。青臭い匂いに包まれる。
シードは笑みを深めた。優雅に手を振る。するとその度にすごい勢いで緑が湧きだす。
まるで協奏曲(シンフォニー)。光の粉がキラキラと舞い、あっちから、こっちから、シードが体を揺らすと、芽吹く種。瞬く間に周囲は緑で溢れ返る。思わず腰を抜かす。
「わわっ!!?」
一本の蔓に足を取られ、そのまま転倒。「いってぇ!! うわぁああっ!!?」
ふいにぐいと持ち上げられて、視界が逆転した。足首をつかまれて逆さづりにされたらしい。一気に頭に血がのぼる。遠くの方では逆さに操が蔓の上で飛び跳ねていた。
「おやおや、これはいけない」
手を一振りしたら、パチン、パチン!
はぜる。鮮やかに燃え上がる。
ふいに手をつかまれて、まるで羽でも掴むように軽やかに持ち上げられた。
「おっと、これはもうしわけないことを、私の王子」
シードは優雅に笑った。直人は唇を尖らせた。「もういいよ!」
いちいち戸惑う。今までこんなに大切な人間みたいに扱われたことがなかったのだ。操は単純にお姫さま扱いを喜んでいるが、直人としては多少複雑でもある。
「さて、まだお帰りになるつもりですか?」
直人たちが立っているのは大きく成長した蔓の上であった。そこからは裏山全体が遠く見渡せる。空は暮れ泥んで、まるで惜しむように光の残しを降らす。
振り仰ぐと、シードが柔らかく微笑んだ。
本物の、魔法使い。
「よろしければ、姫君と王子を我らの城に招待いたしますが? 何か美味しいものでも食べて、楽しいことをしてみなで遊びましょう?」
エスコートいたしますよ。
差し出された手と優雅な笑みとを代わる代わる見つめる。
「ミサ、いきたいっ!!」
真っ先にそれに飛びついたのは操。直人は、やはり戸惑う。シードは悪いやつではないのかもしれない。が、なんとなく付きまとう不安感のようなもの。
「……やはり、家に帰りたいと?」
「帰りたくなんかない!」
問われて反射的に叫び返していた。その様子を見て、シードはにこりと微笑んだ。「それでは私とともに? 王子さま?」
今度は迷わなかった。差し出された手を取ったら、それは意外に父と同じ感触がした。
「それでは行きますよ、お二方?」
「おい、本当に大丈夫なのかよ!?」
「大丈夫大丈夫」
シードが二人の手を引き、乗っていた蔦ギリギリまで歩いていく。下は高い崖と深い森だ。そう、シードはここから飛ぼうというのだ。
「城は空にあるのですよ。だから、飛ぶのはいたしかたがないところですが」
面白そうに直人を見る。「まさか、怖いだなんてことはないでしょう? 王子」
「そんなわけねーだろ!!」
ムキになった少年にシードはくつくつと笑った。「ならいいではないですか?」
くっそ、はめられた。
直人は歯噛みしたがもう遅い。ご機嫌そうに鼻歌を歌う目の前の魔法使いに合わせて、一歩、歩みを進めた時だった。さっきまでの元気はどこへやら、操がふいに立ち止まった。
「どうなさいました、姫君?」
「こわいよぉ……」
「何言ってんだよミサ、お前家に帰りたいのか!?」
「やぁ!! こわい、こわいーーー!!」
ギャー、と。一気に涙が零れ落ちる。まるで先ほどシードが目を出させさせた蔓のようだった。直人は腹がむかむかするのを感じた。
「ちょっとぐらい我慢しろよバカ!! こんなことくらいで泣くな!」
しかし、泣き声はさらに大きくなる。もう泣き声というよりも唸り声と言ったほうが良いのかもしれない。「泣くなって言ってんだろ!? 言うこと聞けって!」
「おやおや、レディを泣かせてしまうなんて、私は悪い男だ」
シードの声は掠れて高くなったり低くなったりするが、とても優しい。
繋いでいた手を離し、ゆっくりと直人と操の前に片膝をつく。それから優雅に笑って見せた。「何も怖いことなどないのです姫。飛ぶのなんて、息をするより簡単なこと。――私を信じてくだされば」
「しん、じる、って……?」
「おやおや難しいことをお聞きになる。そうだな。信じる、というのは――」
幼い手を取った。そして、自分の頬に当てる。「私を好きになっていただく、ということでしょうか?」
「だったら、俺はお前を信じねぇぞ!! ていうか、なんだよ俺の時とのその態度の違いは!?」
「ナオトは空を飛ぶのは怖くないんでしょう? さっき申し上げたが?」
「ぐっ……!」
ぐうの音も出ない。
「ミサ、しーどのこと、すきよ?」
「ならば大丈夫ですよ」
シード立ち上がって、再び二人の手を取った。「信じて。私はあなたたちだけの魔法使いだ」
その微笑が地上で見た最後の記憶だった。あっという間に視界は反転、文句を言うより早く、シードは二人を両脇に抱えて勢いよく、
飛び降りていた。
瞬間、直人は恥も外聞もかなぐり捨てて、絶叫していた。