不意にふつっ、と音が途切れた。
思わず眉を顰める。
「――あのさぁ」
声のする頭上を見遣れば、呆れ顔の隣にぶらぶら揺れるイヤフォンが。
私の耳からたった今奪い去られたものだ。
「人の話はちゃんと聞くのが礼儀だろ」
そう言う先輩の手からイヤフォンを取り返し、もう一度それを耳に填める。途端、重低音と歌声とアップテンポのリズムが意識を満たした。
先輩は機嫌を損ねたようだ、あからさまに顔を歪められたが無視を決め込む。話も聞かずに無礼な後輩だと思われている? それなら、音楽を楽しんでいる人間から、イヤフォンを奪い取るその行動の方が余程無礼だ。
目を伏せれば、全身で聴覚だけが働き始め、他の感覚は眠るように麻痺して行く。急速に、落ちるように。
好きなアーティストのロックナンバー。彼らの曲は心地良い。
聴かせる重低音のメロディも、色気のある嗄れたような歌声も、実力に裏打ちされた精巧なリズムも、私は全てを愛していた。
こうしていつまでも浸っていたい。彼らの織り成す音の情景だけを味わっていたい。
現実の世界には見たくもないもの、聞きたくもない音が多過ぎる。
その全てから逃げていたい。
教室に満ちるクラスメイトたちの雑言、街中を闊歩する人々の喚き声、電車の中に詰め込まれた顔と言う顔から発せられる音、音、音――この意識で感じる何もかもが不快だ。逃げたい、全てから。
イヤフォンは私を逃がしてくれる。音楽は私を救ってくれる。
縋っていて何がいけない? 閉じ篭もっていて何が悪い?
逃げ込むことの正当性を声高に主張したい。
私がこうしてひとりの世界を楽しむことで、一体、誰が迷惑を被ると言うのか。誰にも関わらず、誰とも接さずにいることで、何が困ると言うのか。誰からも、文句を言われる筋合いはない。
彼らの音楽が築いてくれるこの世界は、素敵だ。
ポジティブで心が弾む。錆び付いた意識が回り出す。他には何も要らないから、ずっとずっとずっとこの音楽だけを――。
ふつっ、と。
また音が途切れ、私は現実に引き戻される。
瞼を開くとすぐ傍に見えた、険しい表情と真剣な眼差しと揺れるイヤフォン。
「聞けよ、人の話!」
先輩はいたくご立腹のようだ。
「さっきから、好きだって言ってんだけど!」
至近から放たれた声は音楽よりも強く鼓膜を叩く。
その距離、たったの十センチ。
できることなら眼前の現実から、――今すぐ、逃げたい。